ヴァナキュラー・ジェンダーの今さらの批判

ミキシーもこれも全くすぐ消えちゃって、ぷんぷん。
改善してくれる気がないし。
また消えたらホントにもう書くのやめよう。

仲間内に論争を挑まなきゃいけないのって、なんだかしんどいね。

80年代の運動や言説を無化するものには、徹底抵抗しなきゃいけないのですが、気の重いことです。

それでもあれが何だったのかをきちんと位置づけるのはとても大切な仕事ですが、ちょっとここでは資料がない(言い訳)。

とりあえずの序章かな・・・。(帰ってから論証的に詳細なものを書けばいいか)

イリッチ(とりあえず萩原弘子さんに敬意を表してこう表記しよう)とフェミニズムの最も大きな相違は、家父長制概念だね。フェミニストはこれを歴史貫通的に考え、近代を資本主義的家父長制と捉えるけれど、イリッチは、家父長制と、ユニセックスの近代社会(資本主義)を区別する。(マリア・ミースがこれを一つのものと強調してたのはそういうわけかー!)

イリッチは近代と近代以外を分けるものを労働を初めとした社会規範にジェンダー(性差を基にした擬態)がはっきりしていた時代と、はっきりしなくなった時代に分けた。つまり、中性を装う(女性も参画できるように見える)賃労働(彼は、ジーンズをはいて見ただけでは男女が分からないだが、股間だけが膨らんでいる、といううまい言い方をした。英語ではPAYとPENISをかけていたが、日本語ではまさにチン労働!である)が社会の中心になることで、社会自身が片方の性だけ男性規範になったということで、女性は女性ではなく男性でないものと言う影になり、未曾有の地位低下が起こったとするのだ。彼は家父長制と、近代という名のユニセックスのセクシズム(これってすごく分かりにくい概念だよね。実際みんなわかんなかったんじゃあ)を明確に分ける。ジェンダーが分かれていたとき、つまり女の服装と男の服装が完全に別になっていたように、生活全般が別れていたときの男女には、どちらもそれぞれの価値を持ち補完的であった。しかし時には(てほとんどだろ)両者の力のアンバランスがあったこともありそれを家父長制と名づけるが、近代のセクシズムを別立てで強調するのに、そちらの家父長制については全く軽くしか扱っていないのが、女性たちの実感と異なりすぎたのだろう。
 結果として過去の家父長制をたいしたものでないように扱っているとしかみえないし、過去の役割分業の世界を美化することに貢献してるように見えたのである。あー!だから上野さんが母系制の社会がなかった、ずっと女は交換物として扱われてきたってことを文化人類学を駆使して論証したのか!現代を批判することが過去に理想を求めることにならないように。経路を断ち切ったのだ。ああ。(今頃分かるなよーぼけすぎだ。)

 確かに過去の家父長制は近代になって作られた物語の部分がある。例えばイエ制度などは明治になってから発明された新しいものだし、それが伝統を装って登場する。封建遺制とは、実は遺制ではなく、それを装って登場する、グローバル化への対応物である。(今第3の黒船とかいわれるけど、第1の黒船はそりゃア大変だったでしょ。日本、ていう架空の概念と、それを支える具体的生活に密着した伝統をこしらえなきゃ、「人心が乱れる」よ)
 本当に家父長制があったかどうか、男女よりも身分差の方が大きい社会では、階層によって様相も異なる。ともに貧しい階層には性差別が少なく(差別できるほどの原資がない、差別したら女が死んでもっと困る、そうでなくても人里離れてて家族でない女に会うことがなかったりすれば大切にしなければならない。鶴の恩返しとか、雪女とかそういう環境で一生暮らす男性の切なる願望と戒めじゃないだろうか)高い階層の方が大きいということもあるし。

 しかし、目の前の女性は、それがいつできたものかは別にして、「封建遺制」に苦しんでいるのは、自明なのである。農村に行けば今もそれは簡単に見られる(山代巴「荷車の歌」など参照)。それを、性差のある社会と美化されたのでは、黙っているわけには行くまい。しかも彼は近代以後の女性運動をことごとく嘲笑する口調である(ユニセックスであることで性差別を内含している労働に参画すること自身意味がないと思っているから、男性の権利を女性にも、という運動を徒労に思うのは当然だが)。その嘲笑の仕方には全く悪意があって、彼にとって女性の苦しみなどもともと人事である。女性の近代における低い地位をいっているのは近代批判のためだけで、別に女性の幸せのことを考えてるわけでもない。ましてや、女は女らしく、男は男らしく、がよかったでは、ほとんどけんかを売っているのと同義であった。

 女性は無償労働って言うけど、男性も結局給料袋は母ちゃんに取られて会社で無償労働しているようなもんだと、飲み屋の親父話のようなことをいう歴史学者が今もいるのだから、日本でそういう文脈に持っていかれるのは目に見えており、フェミニストがいっせいに反発したのはやむを得まい。特に時代はよくもわるくも均等法が制定され、家事負担のある女性が男性と同じスタートに立たされ(女性運動が主張したように男性が女性と同じスタートにはならずに)、男性サイズのチン労働で負けるのは目に見えている時代が来ていて、その時代の中で、女には女の仕事、などという言説は、ほとんど反動である。彼女たちの苦難をますます厳しいものにするだけである(実際イリッチが言おうが言うまいがそういうことになったが)。彼の論では、主婦は最もくだらないシャドーワーカーなのだが、実際の動きは主婦の労働を認めさせようという方向になっちゃったし。男みたいに働くのが馬鹿みたい、女性には女性の仕事が向いてるわ、ていう方向になっちゃった。ちがうだろ、男もしろ、だろ。でも彼によると、もともと男と女は別々の生き物ってことになってるから、ぜんぜん育児なんかしなくて平気、ていう理屈ができちゃった。
冗談じゃない、とフェミニストが一致団結していきり立つのは当然なのだ。

 それのとばっちりで女性性を尊重しようとするエコフェミが=性差マキシマイザーとして、葬り去られたわけだが、そうしたところで、女性の状況は少しもよくなったといえない。実態として、この論争がどういう意義があったのか、確かにこの闘いに挑むフェミニストの共闘は迫力があってフェミニズム論の深まりとしては実りがあったといえるけれど、現場はひどくなるだけ、女の時代といわれても賃金格差は少しも縮まらなかった。パートが増えて、広がるばかりである。
(それはイリッチの指摘とおり、近代は性差別でできていることを証明している。しかしそれは、過去の家父長と別のものではない、資本主義的家父長制という名の新しい家父長制を基本にしているからである。それは過去の家父長制同様、もしくはそれ以上に性差別的である)。

それでも彼が残した遺産はちゃんと継承されている。それは近代の家族制度と家族賃金の性差別性を明らかにする研究の深まりなどによって。彼の提起の今日性は認めたい。

でも、当時フェミニストに排斥されたイリッチのジェンダー論を2004年に持ってきても、何も新しい意味づけがない。彼のジェンダー論は未だに復興する意味がない。相変わらず日本の現状は変わらないから、反動にしかならない。それの展望の持って行き先もない。

あ、それにすり替えもある。彼の言うバナキュラージェンダーは西洋の前近代で、非西洋の非近代のことを言ってるわけではない。あ、そうか、第3世界の女性たちに当てはめるっていうとこが新しいのか(今頃分かるなよ)。でもそれは彼が全然想定してないことじゃないの?そっかそれが「女の町フチタンか。うーんだったら彼を持ってこなくてもいいだろう。トムゼンを援用してくれよ。

ていうか、結局イリッチは、歴史家として過去のことしか語ってないって言うけど、読み手が勝手に解釈する余韻と言うか行間を漂わせてるんだ。
 だから結局、シャドーワーカーの主婦をなくそうという運動にはならないで、今の中の社会で、ジェンダー役割や役割分業が正しいのだ、だから主婦は素晴らしい、と読まれたり、彼の描く西洋の前近代を現在存在する非西洋非近代の世界を同一化したり(ということは時間が単線的に進む概念を受け入れてることを告白するようなもんだな。前近代の西洋と現代の非近代をいっしょにするとは。それこそ近代的唯物史観じゃん)。
 ものすごいトリッキーな手法。そもそも歴史ほど現代のイデオロギーを作り出すものはないのだわ。だから歴史教科書をつくる会なんだもんなあ)つまり現在の正統性、あるいは非正統性を証明するためのものでしかないから。まさか歴史は事実であるなんて、ナイーブなことを言う人(院生でそういうどうしようもないのがいたが)はないだろう。なぜなら事実は、時間×人数分あるから。それを全部書くことが不可能であるのは自明なので、事実というものはない。無数の事実の中の取捨選択しかない。その取捨選択の判断は歴史家の特権である。それを客観的な事実であると言いくるめるほどの欺瞞はない。それを自覚しない歴史家は消えてほしい。
彼は自覚してやってたんだろう。うまいものだな・・・。

男がスカートをはけば股間のふくらみも見えなくなるだろう。そうやって、家庭責任というスカートをはかせることしかないと思うな。マッチョは不必要。あのときしか必要でないものをぶら下げている、君の方が性的な存在なのだよ。君自身の男性性は単に性的な記号。

あ。ブリーフははいていいんだよ。あのときだけ、元気にしていて、いつもは、おとなしくね。お茶目に。
(やっぱりトランクスはマッチョなのかもしれないなー。あそばせてるからな。スカートの下の振り子、かあ。別バージョン書いてほしいね)

それにしても書くまで気がつかないことってたくさんあるなー。でもこんな口調で書くわけにもいかんし。

凍死の恐怖

雪がじゃんじゃん降る。
私は雪の少ない地方にしか住んだことがないのでオーっなんて思っていたが、やっぱ絶景だよ。

明日はスウェーデン語の5分間のプレゼン。
4時に英語の授業が終わったらもう暗くなっていた。おなかも減ったし、学生会館というか、コンピュータや売店や軽食やお菓子を食べれるところがあって、サンドイッチを食べようと行ってみた。ちょうどスウェーデン人の顔見知りが友達と話してた。よし暗記するのに彼に原稿を朗読してもらって録音しようと、このあと5分くらい時間ない?と聞いたらOKというので一安心。昨日日本人院生に見てもらった原稿を直し最終原稿をと思うも、保存し損ねて、かなり初期の原稿からリメイクすることになりあせりつつ、慣れないんでつづりを間違う。学校のコンピュータはスウェーデン語のワードの校正機能やスペルチェックがあるので、これでないとかけない。あ。そうそう読んでもらうのにプリンターで印字しないと。外は寒いから、とコートとお財布を持って出、待たせたら彼にも悪いし、すぐ帰るつもりで印刷しに行ったけど、なぜか一番近い図書館のプリンタの調子が悪くて、ダメ。あせって講義棟のコンピュータ室に行ってプリントしようとしたがうまくいかず。機械を変えたり部屋を変えたりそのたびにカードキーで出入りし、パスワードを入れてずっと待たなくてはならず。いらいらしながらはっと気づいた。学生会館5時に閉まるんだった。授業終わったのは4時だった!と思って結局印刷できないで戻ってみたら閉まっていた!!!二階にいた職員の人にあけてもらったけどすぐ帰るつもりで全部やりっぱなしで置いてあった荷物は(5分で帰るつもりだったから)片付けられていた。ショック。きっとどこかに保管してると思うから明日来たら?ていわれても部屋の鍵もあの荷物の中だぜい・・・・。
 こうして簡単に凍死の恐怖が訪れた。財布とコートを持っていたのは本当に幸いだったが。

ルームメートが8時半頃帰ってきてくれたんでまあこうしてパソコン打ててるけどね。本当にここでは簡単に凍死できるんじゃないかと。顔見知りに何人か会って親切にしてもらったからまあ外で寝なきゃいけないことはなかっただろうけど。人は助けあわないとね。簡単に死んじゃう気がする。

あすの発表の練習のためにの録音機もないし、確認のための下書きの原稿もない。でもましだと思うしかないな。

こういうことは起きると思っていたが本当に不意になにげなく起こるな。まだよかったよ。これがもっとひどいことになると本当に凍死しかねない。
日本だったらないと思うんだよね。大体鍵なんかちゃんと閉めないからね。玄関閉めてもどこからでも入れるし。家族がいるしね。一人暮らしでも大家さんとか近くにいたりね。それでもダメならガストとかね、うだうだしてられるし、めったなことで凍死しない(でも山谷とかでは大変)。いずれにしろ大して大事に至らないんだけどね。こんな死ぬかも、の恐怖は感じることがない。

鍵は肌身離さずでいなきゃいけないかもな。うん。命綱だから。寒い国は凍死するから。ちょっとうっかり、という自己責任が重い。

暑い国でも首を切られてしまった人のことがいつも自分の恐怖のように思い出される。誰も助けてくれない、その恐怖はうかがい知れない。これから何度も彼の最期を私はおののきながら自分の中で再現していくだろう。こういう時代を作ってしまった選挙民としての自己責任の限りなく沈痛な悔恨とともに。

親瑞(スウェーデン)家

久しぶりに日本にいたときのを読んでみた。何かこの日記結構好きじゃん。骨太な理屈っぽい話が多い感じだな。相手がいると結構話し言葉になって、崩れる。多分それが許せないってことかなと。ちゃんと書けと。書けるんだろうと。そういうことだったのかもといい方に受け取る。実際相手がいないことが逆の緊張感やおもねりのなさになるんだろう。

こっちにきて4ヶ月目に入るけど、思いのほか、スウェーデン社会に心酔してきてしまってるようだ。反「近代」派のはずなのに。最善の近代、ていうかんじなの。本当に。この国は熱狂がない。イデオロギーもない。プラグマティズムと静かな近代システムへの信仰に似た信頼。それは根拠があるし、自分たちで根拠を作っている。何の気負いもなく。そして常にいつも方向転換可能だ。それを操縦するのは9割が投票行動をする国民たちだ。それを判断するのは一人一人に備わった知性と理性だ。それは優秀さとか、聡明さとかいうよりも、熱狂がないってことじゃないのかな。自己放棄がない。自己責任がある。

日本の近代はにせもの。あれは単なる産業化。動員化にすぎない。近代の矮小。近代の弊害が近代化のすべて。だからそこに住んで反近代派になるのは簡単だ。でも実はそれは反近代じゃなくて、反産業化ということでしかないのだわ。
日本の社会は自己無化。倫理を他者にゆだねることが倫理で、責任転嫁するのが大人になることだ。

ここはエボシの世界。しかも彼女のようなファナティックさやキワ物的な(かぶく、っていうか?)声高さがない。化粧をしてないエボシだ。そしたらもののけ姫と対決しなくなっちゃうよ。多分。

化粧をしているエボシも充分挑発的でそして魅力的だったけど、してないエボシは、受け入れるしかない気がするな。反産業化社会の近代社会がもしかしたら充分ありえるかもと思わせるのだ。もののけ姫もメンバーになれちゃうかも。

サブシステンスになりえるだろうか。それともそこは最後に矛盾するのか。

いずれにしても予想外に居心地がいい。誰もが素晴らしい人じゃない社会。普通の人が普通に生きている社会。それでも知性や理性が通る社会。そういうのがあるんだーってほんとに思っちゃうよ。

Hij !

到着以来16日目にしてようやく。メールを自分の機械に取り込めて嬉しい。とにかくもう気温は10度
8月にしてセーターを着たくなるなんて、もうそうしたらこれから先何を着たらいいのかわからなくなると思い、我慢して8月中は普通の長袖や、サンダルで頑張る。10度でもこっちのひとはノースリーブだったりするんだもん。
メールのツールをLANに切り替えればいいだけだったなんて。今までのストレスが馬鹿みたいだった。(でもまだ送信ができない!のですよー。なんで)
こんなものなんですよね。にしても日本語でもつうじないことが多いのに、それに何倍も輪をかけてしまうわ。ともかく。
まだ少し不便は続くけど。楽しい話題が書けるように、頑張ろうっと。

スウェーデンからの舌打ち

 なんと言うか、こうやって寮(の友達の友達)からネットはつながるんですけどね。メールの取り込みができないのは、OCNのローミングサービスがうまく機能してないせいだと思うのだが、どうしたらいいのかな。
この間もダイヤル接続にするのに何時間も問い合わせ電話して結局電話番号にpをつければいいだけだった。あの時はフリーダイヤルで時間だけ浪費しただけだったけど、こんな遠いところから・・・むむ・・・。
 ヨンチョピンの36-555997アナログって言うのに何か接頭語じゃないけど必要なのかなあ。


 最初の日記だって言うのにトラブルの話だなんて。ちっ!

だいたいネットだけなんでつながってるのかな。その仕組みもわかんないし、大学のLANではつながらないのもよくわからない。