親瑞(スウェーデン)家

久しぶりに日本にいたときのを読んでみた。何かこの日記結構好きじゃん。骨太な理屈っぽい話が多い感じだな。相手がいると結構話し言葉になって、崩れる。多分それが許せないってことかなと。ちゃんと書けと。書けるんだろうと。そういうことだったのかもといい方に受け取る。実際相手がいないことが逆の緊張感やおもねりのなさになるんだろう。

こっちにきて4ヶ月目に入るけど、思いのほか、スウェーデン社会に心酔してきてしまってるようだ。反「近代」派のはずなのに。最善の近代、ていうかんじなの。本当に。この国は熱狂がない。イデオロギーもない。プラグマティズムと静かな近代システムへの信仰に似た信頼。それは根拠があるし、自分たちで根拠を作っている。何の気負いもなく。そして常にいつも方向転換可能だ。それを操縦するのは9割が投票行動をする国民たちだ。それを判断するのは一人一人に備わった知性と理性だ。それは優秀さとか、聡明さとかいうよりも、熱狂がないってことじゃないのかな。自己放棄がない。自己責任がある。

日本の近代はにせもの。あれは単なる産業化。動員化にすぎない。近代の矮小。近代の弊害が近代化のすべて。だからそこに住んで反近代派になるのは簡単だ。でも実はそれは反近代じゃなくて、反産業化ということでしかないのだわ。
日本の社会は自己無化。倫理を他者にゆだねることが倫理で、責任転嫁するのが大人になることだ。

ここはエボシの世界。しかも彼女のようなファナティックさやキワ物的な(かぶく、っていうか?)声高さがない。化粧をしてないエボシだ。そしたらもののけ姫と対決しなくなっちゃうよ。多分。

化粧をしているエボシも充分挑発的でそして魅力的だったけど、してないエボシは、受け入れるしかない気がするな。反産業化社会の近代社会がもしかしたら充分ありえるかもと思わせるのだ。もののけ姫もメンバーになれちゃうかも。

サブシステンスになりえるだろうか。それともそこは最後に矛盾するのか。

いずれにしても予想外に居心地がいい。誰もが素晴らしい人じゃない社会。普通の人が普通に生きている社会。それでも知性や理性が通る社会。そういうのがあるんだーってほんとに思っちゃうよ。