消費としての映画鑑賞の居心地の悪さ

ホテル・ルワンダを見た。1時間前に行ったのに、立ち見なんで、その次のにした。今日はどの上映時間もほぼ満員だった。
見に来ている人はいろいろな人だった。世代も性別も。後ろの席の人たちは協力隊かなんか関係の人みたいだった。

ツチ族フツ族の間の虐殺の話は多分99年くらいにすでに知っていたと思う。一緒に遺伝子組み換えの学習会をやっていた同僚Yくんが、NHKの海外ドキュメンタリーでやっていた話をしてくれたのだ。ラジオでアジテーションされて憎悪をかきたてられたという話だったが、今もナチスと同様のことが起こっているこの惨劇を、正直、どうしていいのかわからなかった。アフリカは今も大変。もちろんヨーロッパの過酷な植民地支配と、今も腐敗した関係が彼らを悲惨な状況から抜け出させないことは確かなことなのだ。しかし、日本にいる私がそれをどうしたらいいのかはわからなくて、困惑したままにしていた。

だからこの話は知っていた。Y君とのこととともに印象に残っている。

この2004年にできた映画はとてもよく出来ている。

主人公は、芝生のある家に住む、4つ星サベナ系(ベルギーにサベナ航空ってあるから、すごい大手だ)ホテルの支配人。黒人で支配人になるのは異例のこと。というか、彼は、妻が看護士だった時、一目で気に入って、健康省の役人にフォルクスワーゲンを賄賂に送って、首都のキガリに彼女を異動させたという、そういう有能さでもって、政府軍の将軍や、民兵組織の親玉なんかともいい関係を作っているやり手だ。多分アフリカで不可欠な有能さなのだろう。

「アフリカ版シンドラーのリスト」といわれてるらしいが、この辺がシンドラー(見てないけどすごいやり手なんでしょ彼も)みたいなのかな。

主役の俳優は好感度が高いが、当の実在する本人は、プログラムを見ると、将軍に配役してもよさそうなマッチョな感じの人で、今はベルギーに住んでるそうだ・・・。

100日で100万人が殺された大虐殺。ナタで無残に。このナタが映画の最初に、主人公が民兵組織の親玉と取引するときに誤って、箱から大量に出てきて、ドキッとさせる。中国製で10セントを50セントで売って大もうけする、というのだ(伏線ね)。

和平ブームが一転、大統領が殺され、混乱の中、このナタで住民が殺されるシーンを撮ったジャーナリスト映像を見て、主人公は衝撃を受けるが、これが放映されれば世界が助けてくれる、と希望をつなぐ。しかし白人ジャーナリストは首を振る。「見た人は、ひどいね、といってまたディナーに戻る」

ベルギーの国連軍がやってきてみんな大喜びするが、彼らは在留外国人だけを救うためにきたのだ。奴らはゴミだ、と彼らは駐留する国連平和維持軍の大佐に言う。そして白人だけをバスに乗せて去る。

本当にそのとおりだ。私たちは「悲惨ね」といって食事に戻る以外どうすることが出来るのか?毎日テレビでは人が死んでいる。同じ国の中で殺し合いをする人たちになにができるのか?アフリカってあいかわらずね、どうして仲間同士団結できないの?敵は別にいるでしょう、て思うくらいが関の山だ。

自国民同士の殺し合いに巻き込まれて、よその国の人は誰も命を落としたくはないだろう。
たとえば可能だったとしても国連軍として、あの虐殺の中に自分が行くことは考えられない。

99年に知ったときとそれは変わらない。

私たちに何が出来るのか、わからない。

この上映のために署名を集めた若者たちは、この映画を見てどうしようというのだろう。
純粋に不思議になった。

主人公ポールは家族を守った。でも家族愛は延長された自己愛だ。利己的な行為が、利他を生むことはある。でも殺された100万の人たちは?賄賂を贈る財力も機転もない人たちは?

好演した主演のアフリカ系アメリカ人俳優は、ハリウッドでギャラが何倍にもなることだろう。監督は名声を得る。

涙する私たちは、カタルシスを得る。それで?

赤十字の白人女性アーチャーさんのように孤児たちを助けに行くべきなのか?
何が原因で、どうしたらこういう世界がなくなるのか、が、ない中で、命を懸けた小さな善意は、尊いけれども、結局のところ、白人の免罪符でしかないのではないのか?

私はこの世界の中で、自分のいる場所に当惑する。
ああ、面白かった、といって映画館を出て帰る場所があることに。
知ることがまず大切だと?知ってどうする?わからない。

いつもそうだ。残留孤児を扱い中国ロケをした「大地の子」のテレビドラマはすばらしく、上川隆也は、有名俳優になったけど、日本に来た残留孤児の惨状はすさまじく、国を訴える集団裁判にまでなっている。テレビドラマの主人公の運命に涙を流す私たちは、困っている言葉のわからない同胞の隣人に何もしてあげない。

宗主国ベルギーは、実在の主人公ポールを受け入れてくれる。私のホストマザーのように、生活の世話までしてくれる親切なベルギー人がいることは知っている。去年の8月にはそんな政治亡命をしてきたイラン人ともつきあった。でもこういうアフリカにしてしまったことへの謝罪や償いはしているのか?彼らの富は、アフリカを強奪することによって成り立っていることへの罪の意識はあるのか?

せめて私たちが出来ることを考えたら、第2次大戦のときの隣国への侵略への謝罪と補償をちゃんとして見せることで、ヨーロッパに、真摯にアフリカに謝罪し、奪った富を返還することを迫ることくらいかと思う。

だって、こんなにぐちゃぐちゃにした責任取らないのはひどすぎるだろう。
元には戻せないけど、戻せるくらいに応分に過去の強奪を償うべきなのは「人として」当たり前なのではないか?ヒューマニズムの輸出の前に。

ユーゴスラビアの民族間の虐殺劇もそうだが、いったい第3者の私たちに何が出来るのか、わからない。おぞましい同時代に起こっていることからどういう教訓を得ていいのかもわからない。

この話をしてくれたY君のことを同時に思い出して、ますます複雑になる。一緒にやった遺伝子組み換えは、彼の仕事になって順調に出世した。彼は忠実な役つきになって私は彼と決別した。今も彼にとって私はなんだったんだろうとよく思う。

苦い思いをどうしようもない。

現実の悲劇さえも感動的な物語に変換するこの構造は更なる搾取なのではないかと気が重い。



追記

このホテルの従業員は主人公の演説もあって最後まで仕事を遂行するのだが、彼らの家族はどうなのか、すごく気になった。こんなことしてる場合じゃないだろう。みんなツチ族の身内がいたりしないのか?小田実が、震災後の自治体職員の仕事を批判する文章を読んで、自治体職員である前に、同じ被災者じゃないのか?と突っ込みたくなったことを思い出す。

一人の人間像を描くときに、さまざまな主人公以外の人のドラマが捨象されるのは、その手法の弊害のひとつだなあと思う(ご都合主義な感じがする)。

この映画を職業倫理を描いたものとする町山智浩さんの批評は、それ自身の提起は面白く、波紋を呼んでいる(資本主義の倫理性、みたいなことにまで)。が当たっていないと思う。なぜなら、本人の良心の前にしか、それはないから。つまり、職業倫理は、別物として確立されているものではなく、個々の良心で作り上げられるものだ、という以外ここで提起されることは実はない。材料にはなるかもだが。

たとえば、国連平和維持軍はpeace keeping で、makingではないから介入しないと、大佐が述べたのも正しい職業倫理だ。本当は銃で撃ってはいけないのに、暴徒に囲まれたとき撃ったのはどうなのか(裁判にかけられることかもしれないよくわからないが)。観客としては、ああどんどん撃ってくれそうしないと家族が死ぬ、と思ったけどこれは危険な誘導かもしれない。あのホテルの最高責任者としての任務を全うすることで人々を助けたとするなら、命令を受けただけのベルギー軍がさっさと撤退することも全く正しいことになる(もしあそこで惨状を見て個人の意思で介入し始めたら?)。

この世の中のすべてのものと同様、私は職業倫理も可塑的なものだと思う。だからこそ逆にどう使うかが本人たちに問われているわけで、この問題は、実生活で私がもっともこだわってきたテーマなのだが、この映画の主題ではないと思う。

彼は生き残るために持っているすべてを使ったのだ。あらぬ嘘をホテルマンという職業で政府軍の将軍に信じ込ませ翻弄させることも含めて。逃げられるときに家族と一緒にトラックに乗らず、ホテルに残るのは私は当然だと思った。私も彼なら残るだろう。あそこで最高責任者が従業員と避難民残して家族と一緒に逃げるって選択はありえない。


私が今も印象に残る職業倫理を描いた映画は、タイタニックだ。もう助からないとわかっても、最後まで石炭をくべる船員や、音楽を奏でながら沈んでいった音楽家たちのことは今も思い出す。じたばたと一般観客のように取り乱さず、自暴自棄にもならず無駄ではあっても淡々と最後まで任務を全うする姿は崇高だった。

でも今だったら、家族に携帯電話かけまくるんだろうな・・・。それも自然なことだ。