「論争−アンペイドワークをめぐって」

きのうのことを考える。どうしてつまらなかったんだろう。

私は密輸の話をしたのだが、そこに検閲官が来てると思わなかった。
密輸すべきものをなぜ正面から持ってきて粉砕したのか。最初からわかっていたことである。おかげで、もう入れなくなってしまったじゃないか。それは完敗としか言いようがない。
その話まで聞かれてしまった。

東大という言わずと知れた学問の場所は、誰もが来ていいのだろう。DVの話をする席に、公開の場に加害者が来てもいいってことなのか。組合結成の場所じゃないから経営者が来ることもある。

あきらかに加害者がいる場合、話し方は慎重にならざるを得ない。話し手の階級性とか政治性というのを学問が無化することはできるんだろうか。それが研究者の特権なんだろうか。研究者の無神経ではないのか。学問の中立、非政治性が、運動を壊すことはあるのではないだろうか。それが進める、ていうこともあるのだろうか。

私は当事者性によっかかりすぎて、学問の公開性について身についておらず、その「特権性」を活用できなかったと言うことか。

組織の中の階級性。労働問題研究者は労働者とも経営者とも仲良くする必要がある。調査の協力が必要だからである。それをどう考えるのか、と言う問題に通じることなのだろうか。私は明らかに経営者側の許可を得たくない。労働者の側に立ち切ることが自明だからである。

ことはそういうことだろうか。もっと私自身の個人的なことだろうか。

フェミニズムを生協に密輸すること、これは生協幹部に聞かれていい話だったんだろうか。