他者化という不愉快

昨日はちょっと最後筆が滑ってしまった。

女というだけで性的な存在にさせられてきた不愉快をちょっとだけ感じてほしかったので、えぐいことを書いてしまったけど、まあそういうわけで主語を変えればお互い様なわけで、相互理解というのはもし自分が相手だったら、と想像するところから始まるわけです。男もこんな風に思ってるんだな、と私も分かったりするわけで。女って言うだけでセックスが歩いてるように思う男性も多いらしく、まあこんなかんじで思ってるってことなんだなあ、と。でも男性が女性に自己投影することはほとんどないらしい。

つまり自分がもし女に生まれていたらどう思うだろうか、などと考えることは全然ないのである。

男性による主語の独占が行なわれてきたからである。そういう意味でフランス語のフェミニン・エクリチュールって言うのが意味がある。日本の場合は日記文学は女の独占だったからちょっと違うけどね。(だから私はすぐ日記みたいな文章になっちゃうんだよな。男にかけないだろーとかどっか思ってるわ。紀貫之みたいに「女装」しないとね。)

最近もし自分が女に生まれて育っていたら友だちを死なせないですんだかもしれない、男だったばっかりに、おいしいものの一つも持っていてあげられないで、やさしいこともいえないで、彼は死んでしまった、などと言うことを言う男の人も出てきて、大変いいなと思っている。でも実態は女でも見殺しにしてたでしょう。女でもおいしいもののひとつももっていかない人も多かろう(これがユニセックスの弊害ですわな)。私もそういう女の一人だと思うので、複雑な気分ではある。

もし私が兵士だったらー、と、若い同僚の子に行ったら、「女性が兵士だって自分を仮定することにショックを受けた」といわれて、私がショックだったよ。なりたいとかじゃなくてただの仮定の話なのに。

女性は平和主義者で自分が人を殺す立場になると想像できる生き物だと思ってなかったらしい。こういうのもどうかな。だよねえ。女だっていくらでも殺すぜ。だいたいこういう思い込みは裏切られて女性嫌悪に簡単に転化する。

残虐な男性がいるように残虐な女性もいるが、残虐な男性を見て、人間て言うのはこんなひどいことが、と思うのに、残虐な女性には、女って、残酷、て思うのは本当に変な話。旧ユーゴの民族浄化に、人間は・・・というから男は・・だろ、と思ったのだった。女は強姦という手段で男を民族として攻撃するって言うことはしてこなかったと思う。人類の半分しかしてない残虐行為を、人類全部に帰さないでほしい。これからは女も強姦する権利が手に入るんだろうか。相手の意図と違う性行為を快楽だと思う倒錯が、人類の半分以外に波及するかどうか、それこそ人間は、なのかどうかだな。これはなかなか想像するのが難しい。
あ、そうそうアメリカ女性兵のイラクの男性捕虜への性的虐待ね。あれもまあどうかとおもうけど、て言うのも他に女性捕虜に対する男性兵士の性的虐待がもっとたくさん悲惨にあったと思うけど、女もやるんだーで、チャラになった情報操作と考えられるからである。結局利用されたな。

人類の半分がしてこなかったように、あとの半分がなってほしいけど、そっちの感情移入はないからそちらの方向にはならなかろうな。女になる、なんて考えたこともないんだから。でも、女になるのも悪くないはず。私の男の知り合いは、異性愛者だが自分が女になったと想像して、マスターベーションをすると、何回も限りなくいくそうだ。それは私もうらやましい。

ともあれ、こういう変なことはなかなかなくならないことではある。だから、時々、男を他者化する言説に接することで、他者にされる、ていう体験をしてもらいたいと思うのである。それはめったにないことだからそうされるしか味わえなかろう。こんな思いをするんだな、とスカートをはいた気分になるだろう。あ、私はスカートが好きですよ。そういえば最近ズボンばっかりだな。