ものは考えよう

朝起きてきたら、もしかしたら昨日書いた内容は、面白かったけどちょっと立ち入っていて関係者が検索したりしたら、身の危険があるかも、と思ってもいたんで、もしかしたら消えてラッキーだったのか、と思った。なんだ、よかったんじゃん。

・・・そう書いてたらまた消えた・・・。Prodigalさん、一度もないって?うそ。キーボードのどこかを触ると別の画面になって戻らなくなる。昨日はそれが2回、今日はたったこれだけ書いてるだけで一回ありました。最初の日記からそういう目にあっていました。これまで何回もあっています。相当蓄積があります。なのでつい罵ってしまいました。

というのでご忠告どおり、ワードで書いて貼り付けよう。それはとても良い考え。もっと早くに思いつけばよかった。
結構私は怒りんぼだと思う。バスが来ない、とか、雨が降ってきたとか言っては怒っている。だいたい自分が悪い場合が多いから―つまりそもそも時間に遅れたり傘を忘れたり―たいてい自分に怒っているのをすりかえてることが多い。当然人も怒らせてるんじゃないだろうか。つまりやつあたり。で改善策がない。無駄が多い人生だわ。効率よく生きてたら今の何倍もいろんなことができるだろうになあ。
とまれ、解決。

昨日もそういえば別のことで怒っていたわ。これは八つ当たりじゃない(あれ、八つ当たりってどうしてこういうんだろうなあ)。

先住民文化の中の男女の分業を肯定する先住民女性たちの声を支持する人と話をした。もし自分が先住民女性で一生豆採りで終わるとしても私はいいと思えるけどそうじゃない、そんな一生はやだと言う女性(Aさん)を説得できない、という切実な疑問。先住民女性が、実は豆採りにうんざりして、浸透する商品経済をちょっとうまく利用して蓄財し、村を出て町へ行き、教育を受けて自分たちの村への商品経済の過度な暴力的な浸透を阻止するため保護する法律を作ろうと国会議員になるとしたら、どうか、と聞いたら即座に否定的な答えが。教育も反先住民の「近代」的なものだし、村に残るべきだと。
でもそういう教育の中に今、私たちがいるのは(大学関係者の多い席だった)矛盾じゃないのか、と言ったら、その中で変えていくのだ、と自己肯定の発言が。

なんか都合よすぎない?悩まない安易な答に腹立たしさを感じた。継承すべき文化を持たない首まで「近代化」した私たちに、先住民の文脈を持ってきて、伝統や多様性といっても、日本の自分の場所でどうなのか。コミュニティのかわりにしがらみしかない、伝統性と行っても近代が作った似非伝統のイエ制度があるばかりだ。万葉の昔は、もうはるかかなただ。彼女たちの文化は人類の文化遺産として守るのに、私たちの価値観を相対化するのに全く何の異議もない。しかし今の私たちの生きる社会に彼女たちの「伝統的な男女分業」の肯定をそのまま持ち込むことは反動である。このことがお分かりにならない。それは自分の場所ここで悩んでないからじゃないかと思う気がしてならないのだ。
第3世界の研究者や活動家であっても第1世界の住民であることに何の変わりもない。