逸脱

暗いまま5日経ったけど、それなりに毎日をこなしていたはずだが5日で息切れか・・・。

Aさんが頑張っていて目いっぱい楽しんでいてきっと成功するだろうことは私の喜びでもあるのだが、
なぜか余計なことを言ってしまう癖が抜けない。「近代主義者」と言われていまどき喜ぶ人はいないだろうに。つい90%は賛美だが10%どこか揶揄してしまうのは、私の性格が悪いのだと思う。

時間を守って、期限を守り、やるべきことをちゃんとやるプロテスタンティズムでも通俗道徳でもいいんだけど、そういうものが大切なのは近代教育の中で骨の髄までわかっているのに体はそう動かない。

私の中で勤勉さへの疑念がある。人のつくった決まりや制度に根本的な懐疑がある。実際の行動は社会生活にそぐわないものがあって、頭での規範と実際の行動が全く齟齬をきたす。

段取りとか準備とか間に合わせるとか、そういうものに体が拒否反応を示す。

とはいえ、頭の中では開き直りはできないから自己嫌悪になるのだろう。この自己嫌悪のほうが害悪だと思う。でもこの自己嫌悪があってかろうじて社会性を保てるのも確かだ。

私の規範は、すばやく適切に合理的に行動することを良しとしてるのに、とみに最近、実際はそれが全然できない。
無能だと言うことで嘆きの対象になってきたけど、本当にそうなのかな。頭のどこかでそれを良しとしてないのかもしれないなという気がする。てきぱきやる自分がいると、とても満足するけど、なんか危うさを同時に感じてもいるのだろうとも思う。

森鷗外って誰だっけ、とクイズ番組を見ていた娘が言う。高校生で知らないのか、と驚くけど、別に知らなくてもどうってことはないかもしれない。でも高校生で知らないのは、こりゃあダメだなあと実際思う。教科書に出てこないのかな。あとは推して知るべし、だ。
名前を知っていてもどうってことはないのだ。でもこれを知らないのはある規範からずれていることを意味するのは確かだ。つまらない言い方をすれば、勉強できるタイプの子じゃないのは明らかだ。
でも彼女はどこかで読むことがあったら(たぶんないが)、ちゃんとこの作家のことがわかるんじゃないかと思う(読解力が身についてなかったらしょうがないが)。それは名前を知らなくてもかまわないことで、その方が大切だろうと思う。
6時間散歩した、という稀有な日常は、勉強はできなくてもものはわかるようになるんじゃないか、と思う。ものがわかれば勉強したくなることもある。

勉強ができる、ということと、ものがわかる、と言うことをよく考える。

勉強ができてものがわかるのが一番いいだろう。勉強ができるおかげでものがわからない、と言うことは多い。勉強ができないおかげでものがわかる、と言うのも実はある。勉強ができなくてものもわからない、と言うのが実際は膨大。でも規範は身についているから社会生活ができる。そういう人をたくさん輩出するのが近代教育なんだろうなあと思う。でもこのことはすごいことだ。みんなが同じ規範を持って社会を成り立たせてるからだ。国民化というやつ。

勉強と言うのはある社会規範を身に付けることだ。でも本当の勉強はその規範を相対化してオリジナルなものを作り出すことだ。そうしないと新しい社会は展望できない。規範を疑いなく身に付けた優等生はそれを相対化できるのだろうか。
世の中には身に付けるのも相対化するのも簡単にすいすいやってしまう人、と言うのもいる。
そういう人はほうっておいてかまわない。どんな教育でも被害が少ない。

「近代的な規範」を生真面目に身に付けて、疑わない、そういう硬直性を嫌悪するあまり、私はこんなにずれてしまうのだろうか。アイヒマンになるより3年寝太郎がいい。

そっかー、かつては社会生活の中で「女」と言う非近代人としてアイヒマンにならないようにするために悪戦苦闘してたけど今は3年寝太郎になっちゃったんだー。みんなが困ったときにおきだして難問解決するのがミソなんだけど、役に立たないただ寝るだけの寝太郎だ。